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ゆかりの人: 第6回 渋沢 栄一 氏 (最終回)

印刷用ページを表示する 更新日:2021年11月19日更新

 大河ドラマ「青天を衝け」や新一万円札の顔として注目を集め、「近代日本資本主義の父」としても知られる渋沢栄一氏。約500に上る企業の設立・運営だけでなく、大学や病院等約600もの教育・社会事業にも携わったと言われています。その中に、都産技研の原点である府立東京商工奨励館の設立があったことは、あまり知られていません。今回は渋沢栄一氏と都産技研との関わりについてご紹介します。

渋沢氏

渋沢 栄一 氏

写真:深谷市所蔵

渋沢栄一氏と府立東京商工奨励館

 公益財団法人渋沢栄一記念財団のホームページで公開されている「渋沢栄一詳細年譜(外部リンク)」(文献1)にある「東京商工奨励館設立期成会」に関する記述などを中心に、設立当時の時代背景をたどりながら、以下に渋沢栄一氏と府立東京商工奨励館の関係について想いをめぐらせてみたいと思います。(以下、出典について記載の無い箇所は文献1の資料を参考にしています。)

府立東京商工奨励館設立前

1917年(大正6年)  設立期成会の結成、渋沢栄一氏が会長に就任

 1917年10月 東京商工奨励館設立期成会が結成され、渋沢栄一氏が会長に就任します。この年、数回にわたり、帝国ホテル、東京府庁などで開催された開設に向けた会合に出席しています。翌年4月18日に寄付金募集を開始し、10月10日開会の臨時東京府会に期成会からの100万円の寄付受け入れと商工奨励館設置の議案が上程、可決され、商工奨励館設置が決定します。

 東京商工奨励館概要によれば、「大正八年七月、土工を起し、爾来二年有余を費し十年十月を以て竣成し」とあり、1921年(大正10年)10月に東京商工奨励館が竣工したことがわかります。

 

府立東京商工奨励館完成の頃

 府立東京商工奨励館が竣工した1921年は渋沢栄一にとってどのような年だったのでしょうか。

 6月29日 商工奨励会館参観「集会日時通知表 大正一〇年(渋沢子爵家所蔵) 六月廿九日 水 午後一時 東京商工奨励会館参観」という記録があります。また、公益財団法人渋沢栄一記念財団情報資源センターが公開している「渋沢栄一ダイアリー(外部リンク)」(文献2) にも、午後1時東京商工奨励館参観とあります。この頃には建物はでき上がり、内装や設備の工事に入っており、いち早く関係者が参観する機会が設けられたことがわかります。

 

東京商工奨励館 開館式

 当時の東京府、東京市の様子にも触れておきたいと思います。当時は東京府の中に東京市があるという制度で1921年(大正10年)11月時点の東京市長は、後に東京の都市計画で有名となる後藤新平氏でした。(文献3)

 新聞には11月26日・27日の2日間にわたり、府立東京商工奨励館の開館式が盛大に挙行されたとの記事が掲載されていますが、開館式のとき、残念ながら、渋沢栄一氏はアメリカに行っていたようです。

 この頃、アメリカ国内で排日の機運が高まり、日米関係における摩擦が目立ちはじめていました。「是年十一月、アメリカ合衆国ワシントンに於て軍縮会議の開催せらるるを機とし、栄一国民の一員としてその実況を視察し、且つは日米親善に尽さん為め渡米の意あり」と述べ、生涯で4回目となるアメリカ訪問の決意を表明します。10月13日、横浜からアメリカへ向けて出航し、翌1922年1月30日に帰国しています。

 この背景には、アメリカ国内で、移民に関して種々の制限を加える法案が出されるなど、移民排斥の動きの高まりがあります。日本からの移民についても徐々に制限の対象となり、当時の日本政府は、危機感を募らせ実業界にも対応を要請します。既に実業界を引退していた渋沢栄一氏のところにも、いろいろな要請があったことが想像できます。渋沢栄一氏は、日米親善に貢献するために、外国要人への対応や会議の出席などに奔走していることが年譜から読みとれます。

府立東京商工奨励館開館後

 以下にアメリカから帰国した後の渋沢栄一氏と東京商工奨励館の様子をたどります。

 「集会日時通知表 大正一一年 (渋沢子爵家所蔵) 七月十四日(金曜日) 午後一時半 社会政策講習修了式ノ件(商工奨励館)多少遅刻スル筈 ○中略。

 十二月十六日(土曜日) 午後二時半 社会政策講習所卒業式(商工奨励館)」とあり、1922年7月、12月に、東京商工奨励館で開催された修了式や卒業式に出席していたことがわかります。

1923年(大正12年)   9月1日 関東大震災発生

 渋沢栄一は、交流のあった諸外国の要人に救援要請を打電するとともに飛鳥山の自邸をはじめ自らの多くの施設・機関で、被災者の救援にあたります。また、被災者支援や復興のための資金の調達、制度の設置、具体的な援助、復興の方策の立案に、東奔西走します。震災直前の4月に東京市長を退いていた後藤新平は、関東大震災翌日の1923年(大正12年)9月2日に内務大臣に任命され、帝都復興院総裁兼務として震災復興計画の立案を任されます。後藤新平から渋沢栄一に対して、復興計画への協力の要請があり、渋沢栄一は、快諾し自ら奔走します(文献3)。

 日米関係については、翌1924年7月1日に日本人もしくはアジア人を標的とする移民法(いわゆる排日移民法)が改正施行されてしまいます。アメリカをはじめとする諸外国との摩擦や関東大震災など、困難が続くこの時代の渋沢栄一と府立東京商工奨励館の関わりを以下に見ていきます。

1924年(大正13年) 9月1日 震災一周年記念講演会

 東京商業会議所(当時・現在の東京商工会議所)及び東京府・東京市・東京実業組合聯合会の共同主催の震災一周年記念講演会に、軽い症状の病気を押して出席し、震災一周年についての講演をしています。

10月25日 奢侈防止講演会

 修養団体主催の奢侈防止講演会が開催され、贅沢は慎むべきという主旨の講演を青淵(せいえん)という号名でしています。青淵(せいえん)という号は、渋沢栄一が、修養団体などでの活動のときに好んで用いていた様です。

11月11日 平和記念大講演会

 社団法人国際聯盟協会主催の平和記念大講演会が開かれ、講演をしています。84歳の渋沢栄一は、関東大震災からの復興と国際親善のために、府立東京商工奨励館においても精力的に活動をしていたことがわかります。

1926年(大正15年) 11月10日 勤倹奨励講演会

 修養団体主催の講演会で勤勉倹約を奨励する講演を青淵(せいえん)という号名でしています。その後、昭和に入ってからも数回にわたり、府立東京商工奨励館に足を運んで講演をした記録が残っています。

 

<参考文献>

1)「渋沢栄一詳細年譜(外部リンク)」  https://www.shibusawa.or.jp/eiichi/kobunchrono.html(外部リンク)

    公益財団法人渋沢栄一記念財団編

2)「渋沢栄一ダイアリー(外部リンク)」 https://shibusawa-dlab.github.io/app1/(外部リンク)

    公益財団法人渋沢栄一記念財団情報資源センター編

3)後藤新平と五人の実業家 〔渋沢栄一・益田孝・安田善次郎・大倉喜八郎・浅野総一郎〕

    後藤新平研究会編 藤原書店刊

 

役員からの一言

   渋沢栄一氏は、日本経済の礎を築いた人物ですが、外国と日本の関係や国内産業の育成、東京の産業の発展、人道支援など、さまざまな活動をしています。公益財団法人渋沢栄一記念財団のホームページで公開されている渋沢栄一詳細年譜によれば、年齢的には70歳代後半から80歳代後半の頃まで府立東京商工奨励館と関わっていたことがわかります。

   この時代の渋沢栄一氏の活動をたどってみると、府立東京商工奨励館の必要性を訴え、寄付金を集めて東京府に寄付し、その設立を実現した渋沢栄一氏の卓越した行動力無くしては、今の東京都立産業技術研究センターは存在し得なかったことが実感としてわかります。そして、年老いてもなお日本のために猛然と活動していた渋沢栄一氏の行動力に驚かされます。

   私たちは、渋沢栄一氏の熱い想いと行動力を受け継いで、「明日のくらしと産業を支えるために」邁進することを、歴史を噛みしめながら改めて心に誓って参りたいと思います。

        役員

     東京都立産業技術研究センター  

      理事   近藤 幹也

 

 

 

 

 

   

 

 

 


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