大河ドラマ「晴天を衝け」や新一万円札の顔として注目を集める渋沢 栄一 氏。「近代日本資本主義の父」と言われ、約500に上る企業の設立・運営だけでなく、大学や病院等約600もの教育・社会事業にも携わったと言われています。その中に、都産技研の原点である府立東京商工奨励館の設立があったことは、あまり知られていません。今回は渋沢 栄一 氏と都産技研との関わりについてご紹介します。
第一次大戦前後の日本は、戦争を背景とする輸出産業の発展により好景気に沸き、国内生産は空前の活況を呈していました。特に工業の発展は著しく、農業生産額を工業生産額が初めて上回ったのもこの時期でした。
当時の東京には、約2,600の工場があり、その約5割が従業員20人以下の中小企業(読売新聞、大正6年11月8日号)。さらなる産業発展を目指して、こうした中小企業の相談先となる試験研究機関の設立が求められるようになりました。
そこで、東京府は東京商業会議所や東京実業組合聯合会と協力し、商工業育成を目的とした研究機関設立に向けて動き出すこととなります。そして、1917年東京商工奨励館期成会(以下、期成会)が組織され、この会長となったのが、渋沢 栄一 氏でした。
渋沢氏がどのような思いで期成会の会長となり、活躍したのかを記した資料はあまり残されていませんが、渋沢氏らが書き残した文書(「斯民」第一四編第七号)によれば、もともと友人であった当時の東京府知事の井上 友一 氏から府立東京商工奨励館(以下、商工奨励館)設立の構想を聞き、その目的に共感したことから会長を引き受けたことを知ることができます。
現在、都産技研本部の1階エントランスには、期成会の設立規約が展示してあり、そこには、商工奨励館の設立目的の一つとして「府下商工業の発展を図る」ことだと明記されています。渋沢氏らは、「私利を追わず公益を図る」という精神のもとでさまざまな社会事業に携わっており、東京全体の商工業発展を図るという商工奨励館の公益性に共感したのではないでしょうか。
『東京商工奨励館設立期成会規約』
設立期成会会長に渋沢 栄一が就任したことを知らせる新聞記事
『中外商業新報、第一一五一一号、大正七年四月一八日』
(出展:デジタル版『渋沢栄一伝記資料』第56巻 P.321-322)
期成会の設立の一番の目的は商工奨励館建設のための寄付を集めることでした。さまざまな企業や団体の設立に関わった渋沢氏の幅広い人脈が発揮され、最終的な寄付金は100万円(現在の約11.5億円注1)にも上りました。
財界人はもちろんのこと、その設立趣旨に賛同した一般市民からも多額の寄付が集まったという記録が残っており、当時の人々がいかに工業による日本の発展に期待を寄せていたかをうかがい知ることができます。
こうして、渋沢氏らをはじめとする期成会の尽力と工業の発展に懸ける数多くの人々の想いを受けて、1921年府立東京商工奨励館が設立されたのです。
注1:日本銀行「企業物価指数」を基に推計
商工奨励館の設立以降、四つの試験研究機関(府立東京商工奨励館、東京市電気研究所、東京府立染織試験場、東京都立アイソトープ総合研究所。いずれも設立当初の名称)が順次統合され都産技研は今日の姿となりました。
こうした変遷の中でも、私たちの根底には、ずっと「中小企業支援」という強い想いがありました。現在の基本理念にも「産業を担う東京の中小企業を科学技術で支え、すべての人々の生活に貢献することが私たちの使命」であると明記してあり、職員一人一人がこの使命のもと、日々寄せられる中小企業のお客さまからの相談に対応しています。
この私たちの基本理念は、渋沢氏らの「利益を追わず公益を図る」という思想とも共鳴しています。私たちは、設立に関わった渋沢氏らや商工奨励館設立のために寄付した当時の人々の想いを受け継ぎ、これまでも、これからも中小企業のために走り続けていきます。
本部1階エントランスでの100周年記念展示の様子
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